ORIENT オリエントの歴史

創業:1901年

~社名のごとくいち早く海外進出を遂げる~

 ”オリエント”このブランドの名を聞くたびに、他の時計ブランドと何か違うものを感じる。それは同社の創設以来の歩みが関係しているようだ。
 1905年、前身となる多摩計器が創設され、その一年後にオリエント時計という現在の名称に変わった。意外に新しい会社と思われるが同社の前史は1901年、吉田庄五郎という時計職人が上野に開いた吉田時計店がそもそもの始まりである。
 時計の輸入及び修理を手掛けていた庄五郎は1920年、東洋時計製作所を設立した。1936年には、東京日野市に大きな規模の時計工場を設立した。
 さて東洋時計製作所が、オリエント時計の前身にあたる多摩計器に変身したのはちょっとした訳がある。1946年、当時、東洋時計製作所のメイン工場だった上尾工場で、労働者によるストライキが発生。このストライキがもとで同社は解散に追い込まれることになった。その4年後に多摩計器が創設されのである。
 1950年代は日本における時計製造が本格化した時代である。オリエント時計は、月間生産5万個を目標に邁進していったのである。そんな同社に転機が訪れたのは1958年のことだった。この年、通産省が、時計の輸入促進を呼びかけたのである。
 1955年に中国と輸出契約を交わしていた同社は、その後も次々と海外進出への足固めを築き上げていく。輸入促進の声を聞いた1958年には、イランへの完成品輸出契約が成立、ニューヨークに駐在員事務所を開設し、翌年にはアメリカとの大量輸出契約を取り交わしたのである。アメリカへの本格進出は、他の時計会社に先駆けた、非常に画期的な出来事であった。これをきっかけにオリエント時計は海外進出を主戦場とするのである。
 しかしスイス時計が幅を利かせていた海外市場を切り崩すためには、オリエント時計独自のオリジナリティを提示しなければならなかった。同社は「高品質で低価格、スイス時計にはないデザイン」という海外市場に向けて時計作りを標榜することになった。たとえ低価格の製品であっても、修理のために店に戻ってくる時計は、スイスのそれに比べて圧倒的に少なく、同社の製品は海外市場における絶対的な信頼を獲得していったのである。
 同社が他社と一線を画した要素は他にもあった。女性用の腕時計の開発に力を入れたことだ。1961年には「ニューファンシー」と名付けられた女性用の腕時計を発表。旧態依然の小さな南京虫が全盛だった女性用時計の分野に初めて角型の瀟洒なデザインを採用し、世の女性たちを魅了した。これ以降女性用腕時計は角型デザインが大流行。同社はデザインの分野でも先見性を見せたのである。
 機械式からクォーツへと大変革を遂げた時代には、独自のデザイン感覚で勝負を挑むことになる。1968年には卵型ケースというどこを探しても見当たらなかった斬新な形状の「オリエント・レーサー」を発表。1970年には、ボカシのかかったカラー文字盤が評判を呼んだ「ジャガー・フォーカス」を発表。その後は精度から、デザインの進化をより追及することになる。
 近年のオリエント時計であるが、機械式のニーズが高まるなか、1991年に日本ではトップを切って、表裏スケルトンの「モンビジュ」を発表するなど、相変わらず先進性では他の追随を許さない。海外においても1985年から1990年の5年間で輸出額が5倍に増えるなど、伝統は頑なに守られている。
 柔軟な発想で競争の厳しい時計業界を勝ち抜いてきた同社の歩みは、今後も留まることはないだろう。 
 
 「世界の腕時計 №16」より引用


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