HAMILTON ハミルトンの歴史

創業:1892年

~鉄道発達に端を発した、アメリカ時計産業の革命児~

 アメリカで本格的な鉄道開発が始まったのは1830年代以降のことである。東と西から延々と線路が敷き進められ、当時のアメリカの国民の誰もが夢見た大陸横断鉄道が全面開通したのは1869年5月10日午前12時45分、ユタ州プロモントリー・ポイントでだった。その後幹線から枝分かれするように支線が張り巡らされ、人と情報と物資がアメリカ中に行き渡ることになる。鉄道はアメリカの各種産業の発展に欠くことのできない手段となり、さらに拍車をかけるものでとあった。
 しかし当時のアメリカには、全土共通の時間が定められていなかった。このため鉄道会社は、それぞれ勝手な時間を使って列車を運行させていたわけで、実際に約80の鉄道基準時間が存在したのである。狭い地域ならこれでも可能だろうが、大陸横断鉄道によって各都市が結ばれるということになれば話は別である。事故や混乱を多発させる原因となるからだ。この状況はしばらく続いたが、1883年になってようやく、イギリスの例に倣って標準時間が定められる。これはアメリカ大陸を15度ずつ区切り、グリニッジ標準時間を基本子午線とする時間であった。鉄道は時間にまでも大きな影響を与えたのである。標準時間が確立されると、鉄道が次に求めたのはその時間の掌握。つまり誤差の少ない鉄道時計だった。
 1892年ペンシルバニア州ランカスターに創設されたハミルトンは、鉄道の発達と密接に関係しながら成熟期へとその第一歩を踏み出した時計メーカーである。列車の運行が頻繁になるにつれて正確さと安全性の問題が大きな問題となり、鉄道員には鉄道時計と呼ばれる高精度で信頼の置ける懐中時計が必要不可欠な存在なった。
 こんなエピソードが残されている。1891年4月19日、一人の鉄道員の時計が4分遅れていたことが原因で、列車が正面衝突を起こし、死者11人を出すという大惨事が発生した。この事故はミシガン・サザン鉄道の上下線がオハイオ州キプトンで引き起こしたものだが当然起こりうる性質を含んでいたことも確かだった。なぜなら当時の鉄道の大部分が単線による運行を行い、上下線がすれ違うための退避時間は、鉄道員の使っていた基準の曖昧な時計によって決定されていたからである。いつ事故が起こっても不思議ではない状況が、常に鉄道を取り巻いていたといっても過言ではない。
 時計の遅れによる列車事故を教訓に、クリーブランドの時計商、ウェッブ・C・ボールが鉄道時計の基準と査定を統一した。これが「ポール・オフィシャル・スタンダード」の鉄道時計である。この基準を元に各メーカーが競うように鉄道時計を製作したが、多くの鉄道員たちは、ハミルトンの精度と頑丈さに特別の信頼を寄せ、1893年から1969年までの間に51種類270万個の時計が愛用されている。彼らはハミルトンを「アメリカ鉄道のタイムキーパー」と呼び、その名をアメリカ中に広めたのである。まさに鉄道に育まれたメーカーということができる。
 
 ハミルトンは鉄道時計で培った技術をベースに腕時計の開発を行い、1915年に女性用ブレスレットウォッチ、1919年には男性用を発表するが、この時期主流は懐中時計によって占められていたため、これは実験的なものであった。1930年代になると腕時計の製作が本格化し、当時すでに発表され斬新なデザインが評判だったパイピングロックをはじめ、シュプール、セクロン、コントアー、ウィルシャーなど現代に復刻されたモデルも登場。ハミルトンはデザインやスタイリングを重視する先端ブランドとなった。
 ここでハミルトンの広告戦略に注目してみたい。ハミルトンは戦前、戦中、戦後を問わず、非常に興味深い広告を雑誌などに掲載し、販売促進に役立てている。時代の気分を表現するイメージ写真や美しいイラストを巧みに使い、そこに世相を反映した親しみやすいストーリーが展開されるという内容のものが多く、精度などハード面を強調する直接的なものはあまり見当たらない。購買意欲をそそるよう素晴らしい出来映えのシリーズ広告なども見られ、これらがハミルトンの発展に貢献したことはいうまでもない。もちろん戦時中は広告活動も絶えることなく続けられた。
 第2次大戦が勃発すると、アメリカの時計メーカーと同様に、ハミルトンの工場も軍需品専用の生産体制に入る。主にマリン・クロノメーター、ナビゲーションウォッチ、ミリタリーウォッチ、武器部品などの製造を行った。特に船舶が海上での経度を算定するために用いた、高精度マリン・クロノメーターの大量生産を可能にした技術力は、ヨーロッパの時計メーカーをも驚愕させている。
 マリン・クロノメーターの製造に関しては、政府との契約を取り付けるために当時8つの時計メーカーが競合したが、海軍天文台の条件をすべて満たしたのはハミルトンだけであった。1994年10月には、製作日数を要するとされる精密時計マリン・クロノメーターを、1ヶ月に546個製造するという驚異的な記録を残している。互換性をもつ部品を使って大量生産を実現したアメリカの技術は、スイスの時計作りにも大きな影響を与えるまでになっていた。
 戦後を迎えたハミルトンの工場は、軍用一辺倒の生産体制から民間用への切り替えに苦慮することになる。時計製造のための設備も再度整える必要があったが、この問題はそう簡単に解決するものではない。そしてその頃の市場には、すでにスイス時計が氾濫するという、ハミルトンにとって有り難くない事情も重なっていた。
 再出発を期すハミルトンは、女性とビジネスマンをターゲットにした高級時計の製造と宣伝活動を展開した。アメリカ経済が復興の兆しを見せ始めると、ハミルトンにも徐々に戦前の活気が戻ってきた。1950代年にはケースデザインのユニークな史上初の電池作動式時計「エレクトリック」と、その発展型の「ベンチュラ」を発表。1970年代には初の発光ダイオード式デジタル時計「パルサー」など、革命的な時計を続々と誕生させている。
 1960年代以降のハミルトンは、ベトナム戦争の影響で防衛産業部門が拡大の一途をたどる。経営状態は大変順調で、スイスのビューレン・ウォッチ・カンパニーを買収し時計製造部門をスイスに移行させるまでになった。1969年にはランカスター工場でのムーブメント製造が中止され、鉄道時計も同時期に姿を消している。スイスでの生産が主になったためだ。その後まもなく軍用を中心とする精密機器を製造する会社へと姿を変え、社名もHMWインダストリーに変更されている。
 現在のハミルトンは、安定した経営を行い、規模も拡大の方向にある。ケースなどは本国で製造するという本来のアメリカン・ブランド的側面も残しているのだ。現行の製品には、新しい考え方で開発されたモデルと、古き良きアメリカン・ノスタルジーを漂わせるリバイバルモデルがあるが、それらひとつひとつに懐かしくて新しいハミルトンストーリーが息づいている。
 
 「世界の腕時計 №16」より引用


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