image1

BREGUET ブレゲの歴史

創業:1775年

~この男の出現によって時計の歴史は2世紀早められた~

 近年、腕時計の複雑化がますます顕著になっている。これらの機能の原点は懐中時計にみられ、18世紀から19世紀に活躍した、カビノチェと呼ばれる時計職人たちがその大半を発明した。その原点に立つ男が、アブラ・ハム・ルイ・ブレゲである。彼の存在なくして機械式時計の歴史は語れない。
 1747年1月10日、スイスのニューシャテルで生まれたブレゲ。15歳でスイスを離れ、パリ・ヴェルサイユの時計職人の門を叩くことになる。当時のフランスでは、時計は一握りの上流階級のものと考えられていた。これは17世紀以来、連綿と続くフランスの伝統であった。ブレゲも当然、この伝統に従うわけだが、彼が違っていた点は、自らの卓越した技術をこの流れに組み込んだことである。
 1775年に独立し、自らの店をオープンした彼が、最初に着手した仕事は、自動巻き機構であった。この機構はスイスの時計職人ペルレによってすでに発明されていたが、実用に耐え得る代物ではなかった。ブレゲはこの機構に改良を加え、実用化に成功したのである。これにより、ブレゲの名声は王侯貴族にまで鳴り響いたのである。
 ブレゲが、その生涯で最も情熱を傾けたのは、1783年に、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットから注文された懐中時計の製作であろう。「金額、製作期間の制約は一切なく、出来上がった作品は時計のあらゆる機構を持つ最も優れた、かつ最も美しい時計でなくてはならない」というとんでもない注文を受けたブレゲは、すべての仕事を中断して、この時計製作に没入するのであった。
 ところが時代の流れは、この天才時計職人の運命を翻弄することになる。1789年、バスティーユ監獄襲撃に端を発するフランス革命が勃発したのだ。王政は廃止に追い込まれ、王党派とみなされた多くの人々も粛正を受けることになる。ブレゲもその中の一人と睨まれ、1793年、生地スイスへの帰国を余儀なくされたのだった。
 失意のどん底にあった2年間のスイス生活。パリの店は没収という憂き目にもあった。しかし、生地スイスののどかな空気は、時計職人としてのブレゲを新たな挑戦へと向かわせたのであった。この2年間に彼は、トゥールビヨン機構、永久カレンダー機構、レバー式シリンダー脱新機機構、引き打ち機構など、時計学の発展を飾る数多くの発明を誕生させたのである。
 機構上の発明だけがブレゲの本質ではない。優れた時計には優れた意匠も必要なのだ。針の先端に小穴の開いたブレゲ針など、オリジナリティー溢れるスタイルも数多く創り上げたのだ。
 2年間のスイス生活を経て、1795年ブレゲは再びパリの土を踏むことになった。スイスでの発明は商品として実を結び、パリの店は再び活気を取り戻したのである。1802年には、あのマリー・アントワネットの注文による超複雑時計が、19年もの歳月をかけてついに完成した。自動巻き、永久カレンダー、ミニッツ・リピーターなどの複雑機能をすべて搭載したこの懐中時計は、まさにブレゲでしか完成し得ない複雑時計の金字塔とも呼ぶべき作品であった。しかし、当時のマリー・アントワネットはこの時計の完成を見ることなく、断頭台の露と消えていった。
 史上最高の時計職人という称号を欲しいままにしたブレゲは、1823年、ついに帰らぬ人となった。彼の死後は”ブレゲの弟子と”称される少数の職人たちが、彼の意思を継ぐことになるが、時計が一般化し、普及品となる時代にあって、ブレゲ流の時計作りはその流れに逆行するものであった。
 1970年、パリの老舗宝石商”ショーメ”がブレゲの復興に乗り出すことになった。18世紀の複雑な時計技術を現代に蘇らせるという、ある意味無謀な、しかし時計史に残る大英断を下したショーメ。優秀な時計職人を招聘し、かつてブレゲが作り上げた精密を極める時計をひとつひとつ分解し、その仕組みを記録するという、気の遠くなるような作業が始まった。復興宣言から実際に時計が完成するまでに、実に10年もの歳月を要したのであった。
 時計学の世界に2世紀分の進歩と発展をもたらしたといわれるアブラハム・ルイ・ブレゲ。激動の時代に生きた天才時計職人の技術と思想は、ル・ブラッシュにある工場から、毎年ほんのわずかな数だけ誕生するブレゲ・ウォッチのなかに、今もなお生き続けている。

「世界の腕時計 №16」より引用