創業:1833年
~斬新な着想と卓越した技術力。これがジャガー・ルクルトの本質だ~
世界最大の規模と本質を誇る時計見本市バーゼル・フェア。毎年多くの時計関係者が世界各国から集うこのフェアに今年、ある衝撃が走った。関係者たちは一斉に色めき立ち、固唾を飲んで見守った。その先にはジャガー・ルクルトの新作「レベルソ・トゥールビヨン」があった。文字盤を含むケース本体が、そっくりそのまま180度反転して収まる機構を持つレベルソは、現在でも同社を代表するモデルとして知られる。この角型ケースのレベルソのムーブメントに、何とトゥールビヨン機能が組み込まれてしまったのだから、関係者が一様に驚きの声を上げた。といってもなんら不思議なことではない。技術的な素晴らしさもさることながら、160年間という長い歳月を経ているにもかかわらず、同社の姿勢が今日まで、1本の糸のように切れ目なく続いているということを、この時計を目の当たりにしたことにより身をもって実感することができたのだから。
ジャガー・ルクルトの歴史は、1833年にアントワーヌ・ルクルトがスイスのル・サンティエに時計工房を開設したとことに始まる。時計工房を開設しようとする者の大半が生粋の時計職人であったこの時代にあって、彼は時計造りにに必要な工作機械の設計を主に手がけるエンジニアであった。このような彼のユニークな経歴が、後のジャガー・ルクルトの個性に大きな影響を及ぼすことになる。
創設からわずか11年後の1844年のこと、アントワーヌ・ルクルトは、早くも時計史に名を刻む一大発明を発表した。それは1/1000mmという当時では思いもよらなかった精度まで測定が可能なマイクロメーターの開発である。この発明により、時計の精度調整は飛躍的な伸びを見せたのだった。1903年には、厚さ1.38mmの薄型ムーブメントを搭載した、当時としては世界一薄型の懐中時計を開発した。1915年には、パリに最初の販売会社を設立し、世界的精密機器メーカー及びムーブメント供給メーカーとしての地位を不動のものとした。
1930年代の声を聞くと同時に、今度は自社ブランドの製品拡販に本腰を入れるようになる。1930年には動力源に空気を用いた画期的な置時計「アトモス」を発表。この時計は1927年にスイスのジャーン・レオン・ロイターというエンジニアによって発明されたもので、それを初めて商品化したのがじゃがー・ルクルトだった。気温の変化が原動力となる時計は17世紀にパスカル・アンデルヴァルトという時計職人が開発に成功しているが、このアトモスは当時の機構をさらに改良し、商品化に耐え得る実用性の確保に成功したものである。それはあたかも生物と同化するかのごとく呼吸し、静かに時を刻む。フランスのドゴール元大統領や、アメリカのケネディ元大統領の執務室の傍らにそっと置かれていたのもアトモスだった。機構のユニークさもさることながら、このアトモスが精度面でも優れていることを示す格好のエピソードと言えるだろう。
1930年代はロレックスのオイスターパーペチュアルなど、数多くの傑作時計が誕生した年代としてとくに知られている。ところが、この年が代恵まれていたかと言うと、必ずしもそうではなかったようだ。例えばイタリアではムッソリーニ率いるファシズム党が国家の全権を掌握したのをはじめとして、ヨーロッパ中いたるところに、来るべき世界大戦を予見させるような、不穏な空気が流れていた。1932年には彼の地スイスでも、ジュネーブ軍縮会議が不成立に終わっておる。ところが、いつの時代にあっても自らの生活様式を頑なに守ろうとする人々は存在するもので、貴族階級はその典型であった。
暗い時代の不穏な空気が自らの生活に影を落としはじめたことを敏感に感じた貴族階級は、スポーツ競技、わけてもポロに熱中した。半端な行動を潔いとしない彼らは、当然、道具にもこだわりをみせる。ある日激しい競技の際、腕にした時計が破損して困ると言う意見が彼らの論議の対象としてもちあがった。どんな時計であれば、我々の激しい競技に一番適するのか、延々と協議された。とにかく机上の空論をひとつふたつ紡ぎだすくらいわけもない彼らのこと、きっとさまざまな意見が交錯したことだろう。ところが彼らには「行動する」という能力が著しく欠如していた。観念の世界を浮遊する貴族階級の思考は、どこまでいってもただの絵空事でしかなかった。自らの限界に気づいたか気づかなかったかは、定かではないが、とにかく彼らは当時名声を博していたジャガー・ルクルトに、「ポロ競技の激しい運動の際に受ける衝動にびくともしない時計」を発注した。同社の技術者やデザイナーは討議を重ね、外圧から時計を保護するためには、ケース自体を反転させて収めるのが一番であるという結論に至った。こうして誕生したのが希代の名品「レベルソ」である。当時の技術ではサファイア・クリスタルのような硬度な素材を開発するのは不可能であったため、衝動からガラスや文字盤を保護するには最高のアイデアだった。さらに、頑強なステンレス・スチールを初めて時計の素材に用いたという試みも、技術と理論的裏付けを内包した同社ならではのユニークなものである。貴族階級が我先にと飛びついたのは言うまでもない。
ジャガー・ルクルトのユニークなアイデアは、その後も製品化という形で数多くの実りをみせた。例えば1945年には、自動巻きムーブメントにアラーム機能を搭載した「メモボックス」を発表。1950年代に入ると、自動巻きの巻き上げ残量を表示し、リュウズを裏蓋に配した「フューチャーマチック」という、文字通り未来的で大胆なデザインのモデルを発表した。人々が腕時計があったらどんなに便利だろうかと思いを馳せるような機能を、斬新なアイデアと卓越した技術力で現実化する。エリザベス2世の世界最小のムーブメントを搭載した宝飾時計も同社の製品であったなど、輝かしいエピソードにも事欠かない。
時計の製造に間接的にかかわっていた人物が時計の製造に着手したとき、生粋の時計職人では絶対に考えつかないような、独創的なアイデアに満ちた時計が次々と誕生した。これがジャガー・ルクルトの本質だ。それが、世代を超えて今も息づいているからこそ、レベルソ・トゥールビヨンのような傑作が生まれるのだ。
ジュウ渓谷に佇む同社の工場には、過去から現在までの自社製品の設計図や、歯車などを自動的に削りだす古い工作機械が今も大切に保存されている。創設以来培ってきた技術力、精神的ノウハウがここで、今日も静かに、次代に継承され続けている。
「世界の腕時計 №16」より引用
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